公開: 2021年4月21日
更新: 2021年5月15日
「秩序」と言う言葉には、様々な意味がある。数学では、「順序」を意味することが多い。特に、集合の中の1番目の要素、2番目の要素など、前後関係がある要素からなる集合を順序集合などと呼ぶ。この順序も一つの「秩序」である。物理学では、量の多さや大きさを示すときに、量の具体的な数値を問題にするのではなく、量を大まかに表現するため、10進数で表した場合の桁数を同じ言葉で表現する。さらにコンピュータ科学の分野では、ある問題を解くのにどれくらいの計算が必要であるかを表現するのに、比例で表現できる「線形」時間、2次関数などの多項式でなければ表現できない「多項式」時間、さらにある定数の何乗かの時間がかかるのかでしか表現できない「指数」時間などに問題を分類したときの分類を、「オーダー」(例えば、「指数オーダーの時間」)と呼ぶ。
ここでの「秩序」は、哲学や社会学などで使われる言葉の「秩序」である。社会学では、ある社会(グループ)に属する人々の間で共通に理解され、守られている決まりごとや何を大切にするかなどの考え方を言い、その秩序が大きな社会に存在する複数のグループの中に、上から下へと地層のように層をなして積み重なっている様子を議論する。例えば、封建社会の身分階層の問題などである。哲学やその1分野である倫理学では、どのような「もの」や「こと」を重視して、人間が問題を考えるのかを議論するときに必要となる、問題の大きな分類(カテゴリと呼ぶ)のための基準を意味することが多い。現代の世界では、科学技術の発展が鈍化して、倫理的な問題や、社会を動かすための法の秩序が問題になることが多い。これは、科学の進歩に、人間が追いついてゆくことが難しくなっているからであろう。
フランスの現代の哲学者、アンドレ・コントスポンビルは、「資本主義に徳はあるか」と言う題名の著書の中で、現代社会には互いに独立した4つの秩序があるとした。それらは、理性の秩序、法の秩序、倫理の秩序、そして博愛の秩序である。これらは互いに独立しており、理性の秩序で考えて「高い」と言える行為でも、法の秩序や倫理の秩序で考えても「高い」と言えるとは限らないことを主張した。これは、フランスの一般人が彼に問うた、「資本主義の成功は、高い倫理に裏打ちされるべきであるか」との質問に対する答えであった。理性の秩序に属する経済の成功と、倫理の秩序に属する徳の高さは、全く別の問題であることを説明した理論である。
コントスポンビルは、中世以後の世界では、科学や技術など、理性に基づく思考を重視して来た。これは、自然科学とその応用の分野だけでなく、社会科学や言語学のような分野でも同じである。この秩序の枠組みでは、進化論を認めるプラグマティズムの考え方も、合理性があるとして、受け入れられる。中世以前の世界、メソポタミア文明の時代、ハムラビ王の統治以来、世界では、政治や経済など、人間社会における人々の行為や活動において、個人の自由意思による活動を社会的に規制することで、社会の円滑な運営を保って来た。これが、法の秩序であり、国家の憲法から始まり、各種の法規制、そしてコミュニティにおける決まりごとまで含まれる。近代になって、この分野では、効用主義的な考え方が生まれ、多数の意見を尊重する政治的な手法が重視されるようになっている。古代ギリシャ以来、人間は、どのように生きるべきかを、「善」の視点から考えて来た。それは、人間は何のために生き、働き、戦うのかを考えたからである。これは、「倫理の秩序」の問題であり、「徳」の問題である。古代ギリシャの哲学者、ソクラテスが提起した、「善く生きる」とは「どのように生きることであるか」を考える秩序である。この分野では主として、絶対的な視点で理想的な解が存在するとする、プラトンのイデア論的な考え方と、普遍的な解は存在しないとする、アリストテレスの現実的で中庸論的な考え方の、2つの立場に分かれる。
最後に、古代ローマ帝国で、キリスト教が確立してから、ヨーロッパの世界では、「利他主義」の精神が重視されるようになった。それは、他者のために自己を犠牲にする考え方である。この利他主義は、人間が社会を円滑に運営するための「知恵」である。短期的には、自己の利益にとっては損失になる行為であっても、人類とその社会の存続にとっては、その行為が、長期的には、社会に恩恵をもたらす例は少なくない。キリスト教徒は、「イエス・キリストは、人類の持つ罪(原罪)から人々を救うために、自らを犠牲にした」と、考える。このキリスト教徒の言う「救い」の行為は、博愛精神に基づくものであり、それを考えるのが「博愛の秩序」であると、コントスポンビルは考えた。これら4つの秩序は、互いに(独立で)全く関係がないため、ある秩序で高く評価される行為でも、別の秩序で考えると、低く評価される例がある。例えば、経済的に成功した企業の経営者が、必ずしも倫理的とは言えない行為を行っていたとしても、理性の秩序から見れば、それは否定できない行為であると、コントスポンビルは、主張している。、
資本主義に徳はあるか、アンドレ・コントスポンビル、紀伊国屋書店、2006